遠藤文庫

定期連載「雪の彫刻たち」第二部その8
2002.01.25

今日のBGM「僕は一寸」細野晴臣

「ふあー」朝、眠い目をこすりながら、朝もやにけむる外を眺めた。山の空気はやっぱりどこかしらさわやかだ。少し寒くてぶるっと震えた。

俺たちは長野県にいた。冬はスキー場になる宿泊施設をかり、我が軽音楽部は夏合宿に来ているのだった。それこそ一日中思い思いのバンドと練習をし、飲み、語らい、あっという間に3日目の夜、発表会の日を迎えているのだった。

キリハラと組んだバンドは3つ。シャーラタンズのコピーバンドは俺がボーカル、ベースがキリハラだった。歌詞が覚えられなくて、歌詞カードを見ながら歌った。どうせ宴会の席だ。何でもありだ。俺がドラム、キリハラがボーカルをつとめるジャパンのコピーバンドは、ひさびさにという分けでもないがドラムを叩いた。というより、ずっと前からジャンセン師匠のドラムを叩きたかったのでとても満足した。後輩がベースを担当したのだが、その当時は誰も持っていなかったフレットレスベースを実際に使ってのライブで、キリハラのボーカルもシルヴィアン(西城秀樹)風でノリノリだった。

ここまではよかった。非常に。しかし、キリハラと俺のユニット「エスキモーズ」はどうだったか…。結果からいうと最悪だった。原因は、1.歌詞をしっかり歌えなかったこと。2.カセットのバックトラックオンリーで、楽器は持ったが(キリハラギターだけ)、演奏はせず、ただのカラオケになってしまったこと。3.アレンジの煮詰め具合が足りなかったこと…などなど、あげればきりがない。あきらかに客達は引いていたし、俺たちもやっているうちにしらけてきてしまったのだ。

…はじめての挫折だった。その時点で、できることは精一杯やったつもりだったが、やはり、至らない部分が多かった。調子に乗っちゃいけなかったんだ。やっぱり、精一杯尽力して、自分達で最高だと思えるものをはじめてぶつけるからこそ、聞く人たちはそれを評価してくれるのだと、そのとき改めて感じたんだ。

それ以来、キリハラとはユニット形式で組むことはなくなった。バンドという形はあったが(あとでまた復活するんだけどね)。自粛の意味もあり、自戒の意味もあり。俺もまた、あまりフロントには出ず、ドラムを叩き始めた。

そのときの経験は、苦い思い出であるが、それがなければ今の俺たちもなかっただろう。その苦さをバネにまた俺たちは前に進むことができたのだから。

(そのときのライブで俺が作った曲は、詩とメロディーラインを変え、のちに「うらら」としてよみがえるのだった。)

・・・つづく

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